稽古者視点から「合気道」を考える

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稽古者視点から

「合気道」を考える

© Miura Yoshihiro 2023

目 次

合気道概説

合気道の立ち位置/合気道の人間観・世界観/「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」

合気道略史

甲州から会津へ/御式内(おしきうち)/御式内から大東流合気術へ/大東流合気術から合気道へ

合気道の体捌きと術理

力比べを超える合気道/合気道の基本要素/「間合」について/「見切」について/ 「合気」について/合気の学び方/合気の二局面/入身/転換と円転の理/右足と左足/入身・転換はなぜ難しいか/呼吸について/呼吸力/座技呼吸法/呼吸力と手刀/当身(あてみ)

合気道を学び上達するために

稽古に臨む姿勢と自覚/型稽古について/様々な稽古法/受身/稽古は速さ・強さより正確さ/ 型稽古の弊害/木刀の素振りと重心(重心移動)/合気体操/足運び① 摺足(すりあし)/足運び② 膝行(しっこう)/残心/木刀と杖/一人稽古/心の持ち様/合気道事始めと岩切師範のこと/あとがき

参考・引用文献・資料

コラム

霊山神社(りょうぜんじんじゃ)/『邪宗門』/合気と日常/呼吸と日常生活/黒袴

合気道概説

合気道の立ち位置

合気道は、明治期の大東流合気術を起源とし、大東流合気術は江戸期会津藩の護身術「御式内(おしきうち)」を起源とし、御式内は戦国乱世の甲州流軍学の護身術を起源としていると言われている。元来合気道は戦場で生き残るための武士の術であり、血腥いものであったものが、戦乱の収まった江戸期に殿中の護身術として整えられ、明治の近代化と廃藩置県によって世に知られるようになったものである。

合気道は、甲州流軍学の「命のやり取り」のための殺傷の術に始まり、「争わぬ武術」という真逆の価値観を得た武道として今日に至るが、そこには生と死をめぐる葛藤や確執があったものと想像される。

われわれが今日稽古に励む現代合気道は、そのような武士の護身術を母体として、大正末期から昭和初期にかけて植芝盛平(1883〜1969年)によって創始された体術である。

戦い・争いは機先を制すること、先手をとることが勝利の前提とされるが、護身術を起源とする現代の合気道には先制攻撃の技がない。いわゆる「後の先」の体術として体系化されており、攻撃を「受ける」ことに始まり、相手を「制す」ための稽古を積み重ねながら体捌きと技を修得し、心身を鍛錬し、その過程で「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」を獲得することが合気道の理想とされる。

また多くの武道が日本の近代化と共に競技スポーツ化してゆくなかで、合気道は競技スポーツ化の道を歩むことなく、稽古希望者を対象として華やかな競技の舞台から離れた場所に、古武道の姿を残して今日に至っている。競技形式を取り入れている流派もあるというが、故に合気道にはスポーツ的試合がない。

体術、武道であれば合気道の技がどれほど優れたものか、試合・勝負を通して体術としての優位性を確認したがるのが一般的な感覚であるが、試合のない合気道には勝者も敗者も存在しない。合気道技の優位性も明示されない。このことで体術としての合気道が分かり難いものとして映り、物足りなさを感じて、合気道に見切りをつける稽古者がいることも事実である。

では合気道は何故に試合わないのであろうか。その理由を開祖の植芝盛平は以下のように述べている。

一国を侵略し一人を殺すことではなく、みなそれぞれに処を得させて生かし、世界大家族としての集いとなって、一元の営みの分身分業として働けるようにするのが、合気道の目標であり、宇宙建国の大精神であります。(中略)絶えずこの祈りによって争いをさせんようにする。だから合気道は試合を厳禁している。がその実は大なる愛の攻撃精神、和合平和への精神である。(『合気道技法』263頁)

合気の稽古はその主となるものは、気形の稽古と鍛錬法である。気形の真に大なるものが真剣勝負である。武道においては本来、いわゆるスポーツ的試合はない。試合うとすれば生死をかけた試合となる。しかしながら徒らに勝負を求めることは大きな間違いである。実に破壊殺傷は人生の一大罪悪である。

我が国における古よりの武道に対する立法は、殺すなかれ、破るなかれであった。(中略)しかるに今どきの武を講ずる人は往々にして日本の真武を知らず、中古よりの覇道的武道におちいっていることを悲しむ。(『合気神髄』161〜162頁)

「合気道は、古よりの武道に対する立法に則り、徒に勝敗を求めることなく、争いをさせないようにすることが目的であり、ゆえに合気道は試合わない」ことが合気道の根源的な立脚点ということであろうか。

ところで、このような開祖植芝盛平の合気道に対する根源的立脚点はどこに由来するのだろうか。武田惣角と大東流合気術との出会い、出口王仁三郎と大本教との出会いが植芝盛平と合気道の成立に大きく影響しているといわれるが、開祖の歩んできた修行の道筋や大本教との出会い、あるいは開祖の言説などにその源を求めたいところであるが、開祖の合気道に対する根源的立脚点に至るには、それだけでは見えない何かがある。

想像の範囲ではあるが、そこには開祖が修業を重ね、合気道創始に至るまでの時代の特有な背景と、人間の業を超克するための思想(人間観・世界観)があるのではないだろうかと思われる。

合気道の人間観・世界観

それを探るために、植芝盛平が大正11(1922)年に「合気」に覚醒して以来、昭和6(1931)年に「皇武館」を開設し、昭和23(1948)年の「合気会」開設に至る四半世紀の日本、合気道が創始された時代の日本はどんな姿の国であったのか、時系列で見てみよう。

大正12(1923)年、関東大震災発生。推定の死者・行方不明者10万5千人。

大正14(1925)年、治安維持法の成立。

昭和2(1927)年、山東出兵。大陸侵攻を進める。

昭和3(1928)年、関東軍による張作霖爆殺事件(奉天事件)。

昭和5(1930)年、世界大恐慌起きる。

昭和6(1931)年、満州事変と東北大凶作。

昭和8(1933)年、三陸大津波。死者行方不明者3千名。国際連盟を脱退。

昭和11(1936)年、二・二六事件起きる。

昭和12(1937)年、盧溝橋事件。日中戦争始まる。

昭和15(1940)年、日独伊三国同盟。

昭和16(1941)年、真珠湾攻撃。太平洋戦争始まる。

昭和19(1944)年、サイパン陥落。

昭和20(1945)年、広島、長崎に原爆投下。死者数約21万4千人。同年8月、ポツダム宣言受諾。

このように、植芝盛平が「合気」に覚醒した大正11年から太平洋戦争敗戦までの日本は、大規模な自然災害と、破滅に向かってひた走る「国体と戦争」という歯止めの効かない暗黒と狂気に覆われていた。その果てに待っていたのは、焦土と化した国土と戦争に打ちひしがれ、その日その日を生き延びる人々の姿であった。

開祖植芝盛平の眼前には、災害で路頭に迷う人々や戦争で人と人が殺し殺されて滅びゆく世界が広がっていたのである。植芝盛平が合気道創設に至る道々で眼にしてきたこのような「殺し殺され、滅びゆく」時代の中に、

真の武道には敵はない。真の武道とは愛の働きである。殺し争うことでなく、すべてを生かして育てる、生成化育の働きであります。(『合気道技法』261〜262頁)

和合とは、各々の天命を完成させてあげること、そして完成することです。(『合気道技法』259頁)

「武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである」と私は悟った。すなわち「武道の鍛錬とは、森羅万象を正しく産み、まもり、育てる愛の力を、我が心身のうちで鍛錬することである」と私は悟った。(『合気神髄』54頁)

といった開祖の言葉を置いてみると、この中には、われわれ稽古者が、合気道を理解するための開祖の言葉という範疇を超えた、人類にとっての世界観と、誰しもが「生かし生かされる」人間観が内包されていることが理解できる。ここに合気道の根源的立脚点と「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」へと至る土壌を見つけることができる。

そして開祖植芝盛平のこの思想は『合気神髄』において、以下のように結実して述べられる。

合気は和合の道、全人類、全宇宙が大きく和して一体をなすべき万物本来の姿の現われである。(中略)かくて大東亜戦争終了と同時に世の濁りを浄めるため合気道が現われてきたのであります。

今まではそれがなかった。対立と抗争、だが、いたずらに世界制覇の野望を持った傲れるものは滅びていき、和合する神々の魂の働きによって、日本が真の平和の王国をなす時期がついに開かれたのです。全大宇宙はみな同じ家族であり、世界から喧嘩争いや戦争をなくす。(中略)それを実在の精神において行なうのが合気道であります。(『合気神髄』124〜125頁)

この引用から類推すれば、開祖植芝盛平が合気道の根源的立脚点に明確に依拠するのは戦後の合気会を創設する昭和23(1948)年頃であろうか。

しかしそれは、令和の時代を遡ること70年も前のことであり、上記のような合気道の根源的立脚点がいかにしっかりしたものであったとしても、その後の日本は時代も人も大きく様変わりしている。そのような変遷する時代環境のなかで、試合わず、勝敗を競わず、型稽古にのみ終始する合気道が、今日のように国内外に発展してきた理由・背景には何があるのだろうか。

「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」

それを可能にしているものは「試合わぬ武道」という合気道の大いなる矛盾に筋道をつけ、「勝敗を競わぬ」禁欲的精神性を支え、武道としての到達点を明示する「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」という価値観・精神性が、合気道の根源的立脚点と輻輳して多くの稽古者に共感を与えているからではないだろうか。

開祖植芝盛平の説く思想・世界観の広がりは果てしがないが、「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」とは、開祖の合気道に対するパラダイム(思想規範)を、多くの稽古者に向かって総合的に表現・提示する、いわば普遍の「道標」となって合気道を支えているのである。

「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」の獲得へと至る道は、不断の稽古を通してその意味内容を理解し精神性を獲得しようとする姿勢のなかにあり、「合気」や「呼吸力」といった合気道の術理を体得するのと同様に、稽古の中心に位置して、稽古者に「合気道とは何か」を明示するものであろう。

合気道人口は全世界で160万人、国内合気道人口100万人と言われ、世界140の国と地域に連盟・道場・団体が置かれて、合気道の総本山である新宿若松町の公益財団法人合気会本部道場には国内外から多くの人たちが稽古に通っている。

稽古者の一人として、合気道の持つ魅力の一端に触れてみたいものだと思う。

合気道略史

合気道の前身とされる御式内(おしきうち)は、その起源を辿れば甲州流軍学に遡ると言われている。甲州流軍学にはさらに前史があると言われているがその詳細を述べるには手に余る。以下に、走り書きではあるが、甲州流軍学から御式内へ、そして大東流合気術から現代の合気道誕生に至る経緯を辿ってみたい。

甲州から会津へ

諸説によれば、甲州流軍学は武田信玄によって重用され、徳川家康の代に体系化された軍学である。その甲州流軍学に護身術(合気術)が含まれていたか否かは判然としない。後にこの護身術が会津藩の「御式内」として伝承されたことから判断すると、甲州流軍学そのものではないものの、甲州流軍学に必須の護身術として合気術が存在していたとみると理解しやすい。

通説によれば、天正2(1571)年、武田信玄の弟武田国継一族が、盟友関係にあった会津芦名家に移り、甲州流軍学と合気術が会津にもたらされたと言われている。その芦名家は天正17(1589)年、摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、会津を奪った伊達政宗も豊臣秀吉による奥州仕置で会津を追われる。その後会津藩は蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明等と領主交代を経て江戸時代の寛永20(1643)年、信州高遠藩から出羽最上(山形)二十万石の領主となっていた保科正之を藩主として迎えた。

保科正之は第二代将軍徳川秀忠の庶子として生まれ、甲斐武田の家系に預けられた後に、信州高遠藩に預け替えをされたが、第三代将軍徳川家光は異母弟である保科正之に目をかけ、北の守りの要である会津藩主に登用したのである。

会津藩の藩祖を保科正之とするのはこのような経緯によるのだが、保科正之の徳川家光に対する恩義・忠君思想、特に「会津家訓十五箇条」が幕末に至り、京都守護職を務め、戊辰戦争で愚直なまでに徳川幕府に殉じた会津藩の運命を定めたと言われている。

■御式内(おしきうち)■

武田国継によって甲州流軍学が会津にもたらされてほぼ70年後、藩祖の保科正之は合気術を殿中護身術「御式内」として藩に取り入れた。御式内はそれ以降「門外不出のお留技」として、会津藩重臣の中のごく限られた能力の持ち主によって代々伝承されてきたとされている。

御式内については「武術ではなく、礼法である」とする説もあるが、伝書が残っておらず、門外不出のお留め技という性格と相まってその内容については詳らかではない。

大藩である会津藩が、殿中護身術である御式内の伝書を残していないというのは不可解な印象を受ける。今でも何処かに密かに伝書が眠っているのではないかと思いたいが、門外不出のお留め技という性質上「直伝」によって伝承者から伝承者へと技が伝えられたものであろうか。

後述の西郷頼母から武田惣角への霊山神社における御式内の伝授が直伝であったことや、武田惣角の教え方も「直伝一回限り」であったと伝えられていることを思えば、御式内は文字による伝書は残さず、技の直伝によって継承されてきたことが窺える。

それにしても甲州流軍学の護身術から御式内、そして大東流合気術への変遷には三百年間、時代も戦国時代から江戸時代、明治時代へという時代を経ている。伝書も無く、個人から個人へと、しかも秘匿された技が三百年にも渡って正しく伝わるものであろうか。おそらく不可能であろう。そこには能・狂言や茶道・華道に見るような「家システム」があったのではないだろうか。日本の伝統的社会は家社会である。直伝・秘伝であればなおさら、門外不出の技を守り伝える「家システム」があったとしても不思議ではない。そしてその家とは武田家と西郷家(保科家)ではないかと思われる。

会津藩最後の御式内の伝承者といわれる西郷頼母(たのも)は戊辰戦争後に保科近悳(ちかのり)を名乗っている。西郷頼母は会津藩の藩祖保科正之の家系に連なる。男系直系が途絶えて西郷姓となり、会津藩最後の主席家老西郷頼母に至っている。また西郷頼母に御式内を伝授された武田惣角は武田国継の血族である。

確たる根拠は何もないが、武田家が会津移住以来、甲州流軍学の護身術を継承し、保科の家柄である家老職の西郷家が両輪となって会津藩に御式内を伝えていたと考えると、三百年の継承という謎と、御式内最後の伝承者が西郷頼母と武田惣角、西郷四郎であったという事実にも得心がゆく。

■御式内から大東流合気術へ ■

会津藩のお留技である御式内が世に知られ、大東流合気術へと至る契機は戊辰戦争と明治という新時代の到来である。

そしてそこには、会津藩最後の主席家老であった西郷頼母(1830~1903年)、明治という新時代に全国を武者修行に歩いた武田惣角(1859~1943年)、西郷頼母の養子である西郷四郎(1866~1922年)の三名が深く関わっていた。

西郷頼母は会津戦争、函館戦争に敗れて幽閉され、その後伊豆の謹申学舎で教育に当たり、松平容保に従って日光東照宮の禰宜、辞して福島の霊山神社の宮司となった。70歳を機に会津に戻り、旧宅近くの陋屋で独り寂しく世を去った。

西郷頼母を手繰っても、残念ながら御式内そのものに関する記載は、霊山神社の記載以外に見つけることができない。西郷頼母の存在は戊辰戦争そのものであり、戊辰戦争の中でこそ語られる人物なのだろう。

今に残る西郷頼母の写真は小兵で細身である。その体格・風貌から判断して「西郷頼母は武術の達人とは思えない」と評する人もいるが、西郷頼母から御式内を伝授された武田惣角と西郷四郎の圧倒的強さから類推すると、西郷頼母の御式内は高い完成度を持ったものであったと思われる。西郷頼母から御式内を伝授された武田惣角が「保科近悳門人」と称して全国を武者修行に歩いていたことからもそのことが窺える。

西郷頼母が霊山神社(りょうぜんじんじゃ)の宮司を務めていたのは明治22(1889)年から明治32(1899)年の10年間である。西郷頼母60歳から70歳までの老年期にあたるこの間に、武田惣角が霊山神社で御式内を伝授されている。「西郷頼母近悳の生涯略年表」によれば、明治31(1898)年「武田惣角に大東流合気武道奥義を伝授す」〔5月12日〜6月26日〕とある。

霊山神社には「西郷を訪ねてきた惣角に、惣角の祖父武田惣右衛門が御式内を伝授した」という伝えがあるとも言われている。西郷頼母が武田惣角に御式内を伝授したのか、あるいは武田惣右衛門が武田惣角に御式内を伝授したのか、どちらが事実なのかはわからないが、惣角の祖父武田惣右衛門を御式内の伝承者に加えたとしても、西郷頼母、武田惣角、西郷四郎の三者が合気術のキーパーソンであることに変わりはない。

西郷頼母の養子で、講道館柔道の四天王として名を馳せた姿三四郎こと西郷四郎の技は、明治の柔術界で「姿三四郎の技は御式内ではないのか」と囁かれていたようである。

旧西郷頼母邸を再現した会津武家屋敷の展示には、姿三四郎の得意技「山嵐」が描かれていた。山嵐は変形の背負投げと評される場合も見かけるが、展示された絵は合気道の「四方投げ」のようにも見える。合気道の四方投げは、相手の片腕を取り込み抑えながら、相手の手首と肘と肩の関節を絞め固め、内回りに体を360度回転させて様々な方向(四方)に投げる技である。山嵐は四方投げに腰投げの体捌きを入れた技と思われるが、肩の脱臼必至の技であり、受身を取ることは殆ど不可能であっただろう。

西郷頼母は四郎を養子にしたが、一説には西郷四郎実子説もあり、二人の写真を見ると、実子説も否定できないと思われるほどよく似ている。四郎を養子にしたのは、西郷家を再興するためであったが、卓越した身体能力を持つ四郎に御式内を継承させる目的であった、という説もある。しかしながら、時代の荒波の中で見果てぬ夢を追い求めた西郷四郎は、20代前半で講道館を去り、大陸への夢を膨らませて思想運動へと傾斜してゆく。

御式内が一躍脚光を浴び、やがて大東流合気術そして植芝盛平による現在の合気道誕生へと至るきっかけは、戊辰戦争後に全国を武者修行に歩いた武田惣角(そうかく)によるものである。

武田惣角は安政6(1859)年に、現在の会津坂下町(ばんげまち)にあたる「御伊勢の宮、武田屋敷」(現西光寺)といわれる神社で地頭職を兼ねる家に生まれた。武田家は天正2年の会津移住以来、会津藩の外郭を占め、地歩を固めていたものと思われる。戊辰戦争では会津相撲界の大関であった父の武田宗吉が力士隊を組織して戦ったという。

武田惣角は小野派一刀流、直新陰流、鏡新明智流等の剣を学び、明治9(1876)年、17歳で武者修行の旅に出る。その途次に琉球空手も学ぶなど、明治という新時代を武道一筋に生きた人であった。

一所定住することなく生涯を修業と漂白の内に過ごし、沖縄、樺太、千島、中国にまで足跡を残している。惣角はその間に日光東照宮や福島の霊山神社に西郷頼母を何度も訪ねており、二人の関係が深かったことが窺える。

武田惣角の名前は次第に全国に知られるようになり、「近代武道史上、不世出」の武道家といわれるほどに強かったらしい。姿三四郎となって以降の西郷四郎もかなわなかったと伝えられている。小説に描かれる明治35(1902)年の開拓黎明期北海道の函館乱闘事件など、数々の武勇伝を持つ人物である。

元帥海軍大将であった西郷従道は、武道指南として同行させた惣角を「この男は、会津西郷頼母の門人武田惣角と言って、名誉も命もいらぬ始末の悪い男である」と陸海軍の将軍に紹介したという逸話も残っている。昭和17(1942)年、武田惣角は行方知れずとなり、生涯の最期を青森県の浪打(青森市)で迎えた。昭和18(1943)年、83歳であった。漂泊の武道家が最後にたどり着いた浪打から伸びる道の先は、戊辰戦争後に会津藩が移封された下北半島の斗南(となみ)であった。

戊辰戦争を眼の当たりにしたことで、武田惣角は明治という時代のなかで、時代が求めるものとは相いれない生き方をしたのであろうか。だがその生涯は、大東流合気術の真の後継者を探し求める流浪の人生だったのではないかと思えるほど、現代の合気道に鮮明な足跡を残している。

●コラム:霊山神社

霊山神社は建武の新政の折、南朝に従った北畠顕家(あきいえ)が、陸奥国府を置いたことでも知られ、明治時代に別格官幣社に列せられた神社である。南北朝以来700年に亘って一藩を守り抜いた相馬中村藩の相馬市と福島市を東西に結ぶ、阿武隈高地の中村街道(国道115号)沿いの山あいに位置する。3・11以降は、フクシマ原発事故の高濃度放射能スポットとして報道されたので、記憶に残っておられる方もいるかもしれない。

■大東流合気術から合気道へ■

武田惣角の大東流合気術はやがて植芝盛平に伝授・継承され、現代の合気道誕生へと至る。

後世、武蔵坊弁慶、南方熊楠と並び、紀州三奇人といわれる植芝盛平は、明治16(1883)年に和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(現田辺市元町)に生まれた。起倒流や後藤派柳生流柔術なども学び、南方熊楠の神社合祀反対運動に合力するなどしたが、明治44(1911)年に政府募集の北海道開拓民に応募し、翌年55戸の開拓団を率いて紋別の白滝に移住する。

武田惣角と植芝盛平の二人の出会いは、遠軽の久田旅館であったと言われている。武田惣角に大東流合気術を学び、やがて教授代理となる。大正5(1916)年、植芝盛平33歳の時であった。近代武道史上、不世出の武道家と言われた流浪の武道家武田惣角から教授代理を印可されたことは、植芝盛平の非凡さを物語るだけではなく、今まさに合気道を稽古しているわれわれにとっては、僥倖ともいうべき出来事であった。

 大正8(1919)年、父危篤の報を受けて和歌山へ一時帰省の途次、大本教の出口王仁三郎(おにさぶろう)に出会ったことが、その後の植芝盛平の運命を大きく変えたと言われている。出口王仁三郎の下に身を寄せ、大正9(1920)年に大本教の総本山である京都市綾部に植芝塾を開設した。武田惣角伝授の大東流合気術に宗教性・精神性が加わり、不動の域に達した植芝盛平は、大正11(1922)年に武道の真髄を「合気」と主唱するようになったのである。

出口王仁三郎の勧めにより、合気道普及のために昭和6(1931)年、新宿区若松町に道場「皇武館」を開設し、昭和15(1940)年には財団法人皇武館(厚生省)が発足した。

その間の昭和10(1935)年には、出口王仁三郎ら大本教の幹部30名が逮捕される大本教の第二次弾圧が行われた。高橋和巳の『邪宗門』は大本教の宗教弾圧を題材とした作品と言われているが、挙国一致で戦争に突き進む軍国日本にとって、大本教と出口王仁三郎は厄介な存在であったのだろう。幸い植芝盛平に累が及ぶことはなかった。

 武道の真髄を「合気」と主唱した植芝盛平は、昭和17(1942)年に、それまでに体得した武術を「合気道」と呼称した。現代合気道の誕生である。そして昭和23(1948)年、財団法人合気会(文部省)が発足する。この昭和23年とは、開祖植芝盛平に多大の影響を与えたとされる出口王仁三郎が鬼籍に入った年でもある。合気道発足の1月前であった。

本稿冒頭の「合気道は大正末期から昭和初期にかけて植芝盛平によって創始された体術である」という、時間の幅を持たせた表記は、このような開祖植芝盛平の精神の軌跡によるものである。

会津藩のお留技である御式内から武田惣角の大東流合気術、植芝盛平の合気道誕生に至る道程には、戊辰戦争から明治・大正・昭和へと変転する激動の時代と様々な人々の数奇な運命が交錯する。合気道誕生に至る道のりには、決して平坦ではない経緯と様々な人々の関わりがある。

●コラム:『邪宗門』

大本教の宗教弾圧を題材とした高橋和巳の『邪宗門』には、「教団に伝えられる武術」と「合気道」という表現がでてくる。物語の構成に影響を与えるものではないが、高橋和巳が当時の綾部における植芝盛平の植芝塾と合気道をキチンと押さえていることがわかって興味深い。

武田惣角の武勇伝と植芝盛平との出会い。植芝盛平と大本教の出口王仁三郎との出会いなどは、津本陽の小説『黄金の天馬』や『鬼の冠』、合気道本部道場関連資料、その他様々な紹介がある。ご一読を勧めたい(巻末参考・引用文献・資料参照)。

合気道の体捌きと術理

■力比べを超える合気道■

人間は闘争本能を持っている。攻撃してくる相手に対して腕力・体力で対抗しようとする。相対すると揉み合い掴み合いや殴り合いが始まり、負けまいとして力を篭め、体力が劣る相手と見るや引き倒し押し倒して打ち負かそうとする。

だが勝ちに拘り、相手を倒そうとすればするほど、身体が硬くなり、体内に力が籠って自縄自縛状態に陥ってしまうものだ。

そして力比べの行き着く先は、開祖植芝盛平の言葉通り「気形の真剣勝負」となる。気形(きぎょう)とは「生き物・動物」のことであり、動物同士の真剣勝負の行き着く先は決して碌な事にはならない。

合気道はそのような力と力のぶつかり合いを善としない。力比べの彼岸を目指す。力と勢いを伴う相手の攻撃を柔らかく受けながら、相手と一体化し、その力と勢いを取り込んで相手を崩し制することが合気道の基本である。そのために「入身・転換」の体捌きや、「合気」「呼吸力」といった術理とさまざま技を不断の稽古を通して養成・体得する。

■合気道の基本要素■

合気道の理論や技は『合気道技法』(植芝吉祥丸著)や『合気神髄』(植芝吉祥丸監修)等の書籍やDVDで学ぶことができる。また昨今はYou Tubeなどを通して様々な技を学修できるようになってはいるが、合気道は師範や指導員の行う技を手本として稽古者が反復練習する、いわゆる「見取稽古」が主流である。古武道や伝統芸能で行われる稽古法であるが、上達は稽古者の学ぶ姿勢に負うところが大きい。

合気道は相手の攻撃を受けながら、相手を制するための個々の技を、型稽古を繰り返すことで修得する。手刀で正面から打ち込んでくる相手、袈裟掛けに打ち込んでくる相手、突いてくる相手、片手を抑えて攻撃してくる相手、袖や肩を取って攻撃してくる相手、後ろから抑えてくる相手等、様々な攻撃を捌きながら相手を制するための技を稽古する。

合気道の技は大別して、一教・二教・三教・四教などの「抑え技(固め技)」と、入身投げ・小手返し・四方投げ・回転投げなどの「投げ技」に分けられるが、名称の無い呼吸投げ(合気投げ)や変化技も多数存在する。そしてこれらの全ての技は次の要素で構成されている。

相手との「間合」

相手に対する「見切」

相手との「合気」

相手を導き崩す「入身・転換」の体捌き

入身・転換および様々な技を支える「呼吸力」

これらを総合して合気道を表現すると「合気道とは、入身・転換の体捌きを用い、合気と呼吸力による技で、一呼吸の内に相手を制する」となる。合気道の説明はこれで終わってしまうのだが、これでは稽古者にとっては禅問答のようで何だか分からない。以下に、合気道を構成するこれらの要素を少し詳しくみてみよう。

■「間合」について■

合気道の体捌きに必要不可欠なものが「間合」と「見切」である。

「間合」とは、攻撃をしてくる相手と攻撃を受ける自分との間の距離のことだと理解してよい。攻撃に対して自分自身が余裕を持って入身・転換などの体捌きに入れる距離、攻撃してくる相手を制する適切な体捌きが可能な距離が間合いである。

合気道の基本的な構えは「相半身」であるが、相半身に構えたお互いの掌と掌の間隔が「拳一個程度」が間合の理想とされる。相手との間合を空けすぎても、相手との間合が近すぎても、どちらも攻防の間合が不充分な状態となって、入身・転換などの体捌きや適切な合気が成立しない。

合気道の体捌きの基本は「適切な間合いを読み取り」「適切な間合いを作る」ことである。また「受け」手と「取り」手は、人によって身長や腕の長さ、攻撃の遅速などに違いがあるもので、間合は相手によって、また相互の動き次第で常に変化するものである。間合いは合気道に必須の要素であり、変化する「間合」を適切に判断する能力を身につけるための不断の稽古は欠かせない。

後述引用の『合気神髄』に「人間の力というものは、その者を中心として五体の届く円を描く、その円内のみが力のおよぶ範囲であり、領域である」とあるように、間合には自分と相手との遠近関係によって「間合いの内」と「間合いの外」がある。相互の間合いが明らかに離れていれば、それは間合いの外にいることになり、攻撃を受ける可能性と反撃をする必要性はともに低くなるが、相互の間合いが近ければ、攻防が生じる間合いの内にいることになる。その間合(距離)が微妙な場合は、間合いの外にいるのか、間合いの内にいるのか、つまり攻防が生じるのか生じないのか、という判断・見切が大事になってくる。

間合には相対する相手と自分の間に広がる空間・距離を見切ることが求められるのであるが、この空間・距離は、常に微妙に変化するものであることを忘れてはならない。

■「見切」について■

「見切」とは、相手との適切な間合を判断すること、相手の攻撃のタイミングを判断すること、自分が入身・転換の動作に入るタイミングを判断すること、などが見切である。同時に見切とは、相手の身体の動きだけではなく、相手の眼の動き、手の微妙な動き、足捌きなど、体全体の雰囲気・気配を読み込みながら、相手の攻撃を事前に察知することでもある。

「間合と見切」の体得には感覚を集中させることが求められる。間合と見切は分かち難く一体化した身体の「空間知覚」(空間認識)動作と言えるだろう。

「見切」は次項の「合気」とも深く連動している。合気とは、合気だけが単体として成立するものではない。相手と対峙したときの間合や見切を含めた一連の流れの中で初めて成立するものである。適切な間合と見切無しに合気は成り立たないのである。それを忘れて「合気」だけを追求しようとしても合気を獲得することはできない。

また、間合と見切は合気道の全ての身体動作、体捌きの最初から最後まで連動するものであり、当初の合気から入身・転換そして技の執行・終了にいたるまで瞬時も揺るがせにはできないものである。この間合と見切りを読み間違うと、その失敗が最後まで尾を引き、ギクシャクとした「合気道まがいの合気道」にしかならない。間合と見切りに後述の合気が重なり合うことで相手との一体化が初めて可能となるのである。

「間合」には「時機やころ合い」と言う意味も含まれ、「間」には「うかがう」と言う意味が含まれる。言葉の意味合いにおいても間合と見切は別々のものではなく「距離を測りながら、機をうかがう」、合気道に必須の一連の認識動作ということができる。

■「合気」について■

開祖植芝盛平は大正11(1922)年、武道の真髄を「合気」に見出した。合気とは「合気道」という名称の由来であると同時に「合気道の真髄」であり、合気道とは「合気の道」のことなのである。稽古者は入門と同時にこの合気と出会い、究極の合気を体得するための長い修行の道程を歩むことになる。

合気については『合気道技法』「道主言志録」の中に、開祖植芝盛平の興味深い言葉があるので引用する。

合気道は相手が向わない前に、こちらでその心を自己の自由にする、自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのです。そしてこの世界を一目で見るのです。今日ではまだほとんどの人ができません。私もできていません。(『合気道技法』262頁)

合気道の修業を志す人々は、心の目を開いて、合気によって神の至誠をきき、実際に行うことである。この大なる合気のみそぎを感得し、実行して、大宇宙にとどこうりなく動き、よろこんで魂の錬磨にかからなければならぬ。心ある人々は、よって合気の声を聞いて頂きたい。人をなおすことではない。自分の心を直すことである。これが合気なのである。又合気の使命であり、又自分自身の使命であらねばならない。(『合気道技法』264頁)

難しい言葉が多く、理解しきれない部分があるが興味深い。初めの引用部分に合気という表現はないが、合気の要点を述べていると思われる。

われわれ稽古者は合気を合気道という限定された世界の術理として捉えるが、開祖植芝盛平の合気が描く地平は限りなく広く思想的である。開祖の様に「神の至誠をきき」「大宇宙にとどこおりなく動く」ことなどできるわけもないが、稽古者はその精神を常に持ち続けたいものである。

術理としての「合気」は、単純化して言えば、攻撃者に対して自分の「気を合わせる(=気持ちを重ね合わせる)」ことであり、体捌きにおいては「軌を合わせる(=軌道を重ね合わせる)」ことである。攻撃してくる相手の「気と軌」に自分の「気と軌」をピッタリと重ね合わせながら相手の動きを自分の動きに取り込み、相手の体と自分の体を一体化した一本の軸として、相手を導き崩すための、合気道に必須の術理が合気なのである。格闘とは「たがいに組みついて闘う」ことであるが、合気道は攻撃してくる相手とせめぎ合わずに、合気・一体化して相手を制する体術である。

合気には前述の間合と見切が重要な要素となるが「合気道は相手が向わない前に、こちらでその心を自己の自由にする、自己の中に吸収してしまう」という上記引用のように、合気する主体は自分になければならない。

護身術としての合気道は「受け」に始まるものの、受けの動きは相手の動きより少し早いか、遅くとも相打ちの積極的かつ能動的な受け身が求められる。相手の攻撃に合わせるのは単なる受けであり、相手に押し込まれて圧力を受けた状態は合気とはほど遠く、入身・転換の体捌きが難しくなるだけである。護身術である合気道には先制攻撃の技がなく、受けに始まるものの、相手の攻撃を「待って受ける」ことではないのである。

また前述の間合と見切りと重複するが、合気は、技の完了まで継続するものでなければならない。うまく合気に入れても、体捌きや体移動が不充分で重心が崩れると、合気は解れ、相手と一体であった軸が二つにほぐれてしまい、最後は腕力・体力勝負になってしまう。

■合気の学び方■

俗に十人十色と言うが、稽古相手が変われば状況も変化する。攻撃的に向かってくる相手、腰を引き気味にしながら防御的姿勢をとる相手、体捌きを確認するように素直な動きをする相手、意図的に幻惑的動きをする相手など、型稽古とはいえ決して一様ではなく、相手が変われば状況も常に変わるのである。それらの全てに対応し、相手と対した瞬間に、その場の雰囲気・気配も含めて相手の気持ちを読み取り、相手の動きを自分の側に取り込むことが「気を合わせる」(合気)ことであり、合気は全ての局面において必要とされる合気道の基本術理なのである。

そして何よりも悩ましいのは、後述の「呼吸力」と同じように、「合気」は視覚化できず、不断の見取稽古では学ぶのが難しいことである。言葉で説明されても、見取り稽古で教わっても理解困難であると断言しても過言ではない。

ではそのような見取の難しい合気はどのように学べばよいのか。答えは一つだけである。師範や高段者との稽古を通して体感しながら身に付けてゆくのである。

合気や呼吸力は人によって程度の差はあるものの、それらを体得している相手との稽古を通して学ぶのが何よりも有効である。日々の稽古において、常に自分より上位の有段者や多くの稽古者と積極的に稽古を重ね、そこで体験・体感する「合気」(そして呼吸力)を、時間をかけながら自分なりに獲得してゆく努力そのものが「合気の学び方」である。

実力で敵わぬ相手と数多くの稽古をしながら、抑え固められ、投げられ、受身を取りながら合気(そして呼吸力)を体感することこそが合気の学び方であり、合気道上達の稽古法であることを知らなければならない。

■合気の二局面■

「合気」は分解して説明できるものではないが、ここでは便宜上、物理的な局面と精神的な局面の二つに分けた上で考えてみたい。

物理的な局面の合気は相手と接触した時に始まる。抑えられた手首、捕まえられた胸・肩・袖の接点、打ち込んでくる手刀や突いてくる拳などを捌いた時の接触点から始まる合気が物理的局面である。これらの接触点を起点として合気が始まり、状況に応じた入身・転換から技を繰り出してゆく。通常の型稽古はこのスタイルで行われる。

しかし本来、合気はその前段に始まっていなければならない。これが精神的な局面である。相手を認識した瞬間、稽古においては相手と向き合った時点で合気は始まっているのである。

開祖植芝盛平の前述の言葉「相手が向わない前に(中略)精神の引力の働きが進む」とはそのようなことを意味していると思われる。特に型稽古においては、得てして接触した局面から合気を始める傾向を見かけるが、稽古者は、その前に合気は「すでに始まっている」ことを常に意識した体捌きをする必要がある。

●コラム:合気と日常

「合気」は人間関係そのものに必須のものでもある。見た目で相手を判断するのではなく、虚心に合気するのが人間社会の基本的な処世法であり、余計な争いを制する基本といえる。自分を取り巻く環境・状況に対しても常に「心の目を開いて満遍なく」合気をしていれば、普段は見えない何かが見えてくるかもしれない。

■入身■

合気道の全ての技は「入身・転換」という二つの体捌きで構成される。「入身」とは攻撃してくる相手の側面に体を寄せてゆく体捌きであり、「転換」とは攻撃してくる相手と同じ方向に、肩を並べるように体を180度ほど転換させながら相手を崩し導き出す体捌きである。どちらも相手の動きと自分の動きを一体化して崩しを行う基本的な体捌きであるが、入身・転換は技そのものではない。「合気」や「呼吸力」を導き出し、様々な技を支える「崩し」のための体捌きである。

合気道では入身の要諦を「入身一足」とする。この入身一足については『合気道技法』に詳しい説明があるので引用する。

具体的にいえば、半身に構えて相手が正面からまともに来る打ち、突き、蹴り等に対して、そのまともの線をはずして相手の力を捌きつつ、その側面に入るのである。

「一足」とは、統一された心身で自己の位置を一歩転位または前進することである。(中略)入身一足とは、自己が入身の態勢で一歩相手の側面に、早く強く入ることであって、そこに生ずる相対関係の力により、それほど力を使わずとも、相手の進む力を逆用して加撃し、それにより相手に致命的打撃を与えることができるのである。(『合気道技法』34頁)

『合気道技法』には「動く二つのものがすれ違った場合、そこに生じた速力(関係速力)は、両者の速力の和となる」。また「来る力と行く力とがすれ違うところに生ずる力と位置の関係を活用する」とあり、「一足」については「実際の技法では、一歩ではなく、すり足で数歩乃至それ以上の距離を前進し、相手の側面に入ることがある」とある。つまり「入身一足」の一足は必ずしも一歩とは限らない。「まともの線をはずして」とは、攻撃してくる相手の中心線を入身によって外すことである。

この入身の体捌きを代表する技は「入身投げ」であろう。正面打ち入身投げ、横面打ち入身投げ、片手取り入身投げ、後ろ両手取り入身投げなど、「入身投げ」の名称が付いた投げ技は多くある。いずれも正確な入身動作が求められるものであるが、正面打ちや横面打ちに対する入身動作は、合気のタイミングを覚えるためにも重要な体捌きであると同時に、入身動作に入る前の間合や見切、また腕の切り上げ切り落とし動作も含まれているので、稽古者はこのことを見逃さず「入身一足」の体捌きを身に付けることが肝要である。

■転換と円転の理■

合気道の入身の要諦を「入身一足」としたが、これには対の表現として「円転の理」があり、併せて合気道の要諦は「入身一足・円転の理」とされる。「円転の理」をこれも『合気道技法』から引用する。

円転の理とは、自己の右足又は左足、或いは体全体が中心となって、相手にその動きを及ぼすことである。(中略)一つの独楽にたとえるならば、この独楽の回転によって描く各点の軌跡が、完全な球体となって来る時の動きが捌きの極致だといえる。(『合気道技法』31頁)

「円転の理」については、『合気神髄』にも以下のように説明されている。

人間の力というものは、その者を中心として五体の届く円を描く、その円内のみが力のおよぶ範囲であり、領域である。いかに腕力が自慢の者であっても、己れのその円の範囲外には力がおよばず、無力となってしまうものである。(中略)

己れは絶えず円転しつつ、なお己れの円内に中心をおき、そして逆に、相手を相手の円外に導き出してしまいさえすれば、それですべては決してしまうというわけである。(『合気神髄』171〜172頁)

「転換」はこの「円転の理」による体捌きの一つと理解すると分かりやすい。そして合気道の技はこの入身と転換の体捌きによる組み合わせで構成されている場合が多い。そのことは『合気道技法』において、

合気道では、この入身に入るということが、あらゆる面で先述の円転と表裏互いに作用しているのである。(『合気道技法』34頁)

と解説されている。前述の入身投げなども、入身→転換の体捌きを基本として構成される。合気道の様々な技において入身と転換は交互に円運動によって連絡・連続する体捌きである場合が多い。

また「円転の理」は、転換などの足捌きによる平面の円運動が特に強調されるがそれだけではない。徒手(手刀)による立体的な円運動も忘れてはならない。転換を行う際の手首の返し、一教(一教から四教まで)を行う際に、抑えた肘を前方下に回し返す手首の動き、入身投げの際に転換する脚と同じ動作で半円に切り落とす手刀の動き、片手両手取の際に、相手の重心を上げて崩すために肘と手首を反時計回りに返す動きなど、円転の理には、手首や腕(手刀)を使った立体的な円運動が、平面の円運動である転換に連動しているのである。

■右足と左足■

不断の稽古において相半身や逆半身の構えにおける「右足と左足」、あるいは入身・転換や体捌きにおける左右両足(両腰)の動きは意識するが、それ以上に右足と左足を考えることはあまりない。しかしながらこの右足と左足については深い意味がある様子だ。『合気神髄』「合気は武産の現れ」からこの右足と左足を引用してみよう。ただし難解な表現が続くため、大幅に省略した拾い読みである。

左足を軽く天降りの第一歩として、左足を天、右足を地とつき、受けることになります。これが武産合気の「うぶす」の社の構えであります。(中略)左は発し、右はこれを受ける、(中略)右足をもう一度、国之常立神(くにのとこたちのかみ)の観念にて踏む、右足は、淤能碁呂島(おのころ)、自転公転の大中心はこの右足であります。こんどは左足、千変万化、これによって体の変化を生じます。左足を三位の体にて軽く半歩出します。(中略)左は全て発し兆し、無量無限の気を生み出すところであります。(中略)左で活殺を握り、右手で止めをさす。(『合気真髄』69〜70頁)

すべて左を武の土台根底とし、自在の境地に入れば、神変なる身の軽さを得る。右は左によって主力を生みだされる。また左が盾となって、右の技のなす土台となる。これは自然の法則である。この原則を腹において、臨機応変、自在に動くことが必要である。

左はすべて、無量無限の気を生みだすことができる。右は受ける気結びの作用であるからすべて気を握ることができる。すなわち、魂の比礼振りが起これば、左手ですべての活殺を握り、右手で止め刺すことができるのである。(『合気神髄』105〜106頁)

この拾い読みを繋げて読むと「左は発し、右はこれを受ける。自転公転の大中心はこの右足であります。左で活殺を握り、右手で止めをさす。左が盾となって、右の技の土台となる」となる。入身・転換においても様々な体捌きにおいても、右足(右腰)を縦軸に据えて捌く、と理解して良いだろうか。大いに気になる表現である。

稽古者として体得できていないことをこれ以上深追いするのは止めにするが、円転の理に上記引用の「右足と左足」を意識した稽古を加えると、興味深い局面が見えてくるのかも知れない。

■入身・転換はなぜ難しいか■

相手と対して身の危険を感じた場合、攻撃者を視野の内に収めながら、間を取り、あるいは間を詰め、攻撃を躱しながら反撃の機を窺うのが普通であり、攻撃者から視線を逸らすことはないだろう。このことは攻撃者の側面に身を寄せたり(入身)、攻撃者から視線を外して背を向ける(転換)かのような合気道の体捌きは、動物としての人間にとっては、実に理に反した動きであるとも言える。

入身・転換の体捌きは、稽古を重ねれば身体動作としては誰でもできるようにはなるが、攻撃者と向き合う場合の身体動作としては不自然であり、不安・恐怖感を乗越えなければできない厄介な身体動作なのである。

また人の運動能力は教育と訓練によって可能となるもので、われわれが幼少時から学んできた日常生活や学校体育の身体動作の中に、入身・転換という動作は思い当たらない。入身・転換は合気道を学ぶことで初めて出会う身体動作なのである。

合気道が年少者にとって学ぶことが難しい理由は、試合が無くて勝敗がはっきりしない、という曖昧さもさりながら、学校や日常生活で学んでいない「入身・転換」という体捌きが、いまだ「身体動作学習進行中」の段階で加わることで、身体動作に乖離現象を起こしているからではないかと思えるのである。

合気道を学ぶことで初めて出会う入身・転換という身体動作を体に馴染ませ、脳が瞬時に反応して、無意識の内に体を動かせるようになるには時間がかかる。ここに「合気」と「呼吸力」という術理が加わって初めて合気道は成立するのであるから、魅力に満ちた合気道、実は悩ましくも難しい体術なのである。

■呼吸について■

誰もが日々無意識に行っている呼吸には腹式呼吸と肺呼吸の二つの呼吸法がある。合気道ではこの二つの呼吸を連続しておこない一呼吸とする。ゆったりとした長い呼吸となり、その一呼吸が合気道の技一つ分の呼吸であることを理想とする。

合気道の個々の技は、瞬間技から行程の長い技まで、かかる時間に多少の長短はあるものの、すべての技は息を吐きながら一呼吸で行うことが理想とされる。技の途中で息を吸ったり吐いたりはしない。息を吐きながら呼吸力を出すのである。そこで求められるのが、腹式呼吸と肺呼吸が連続した「長い呼吸」であり、この呼吸が次項の「呼吸力」と深く関連してくる。

合気道では、稽古を始める前と稽古の終了後に正座黙想を行う。どちらも呼吸を整えるためであるが、初めにゆっくりと腹式呼吸で息を吸い、一杯になったら肺呼吸に移る。その後肺呼吸も一杯になったら、ゆっくりと息を吐きながら重心を臍下丹田に落としてゆく。息を吸い始めても、吐き始めても、何時も重心が一定して畳に向かって落ちている状況でなければならない。これによって重心は安定するのである。最初はなかなかできずに、息を吸い始めると重心も同時に上がってしまうものであるが、呼吸力は重心・臍下丹田から発するものであり、常に重心を落とし続けて安定させる呼吸の仕方を学び獲得することが呼吸力の鍛錬には不可欠な要素である。

合気道の技は、技の初めから終わりまでに一呼吸以上かかると、技に連続性が保てぬばかりか短時間の内に息が上がる。稽古中に息が上がってしまうのは、熟練度や体力差にもよるが、呼吸が正しく行われずに乱れている場合が多い。なぜ呼吸が乱れるかと言えば、型稽古の反復の中で、いつ知らず腕力に頼り、上半身に力を籠めてしまっているからである。その場合は大抵、息を止めて呼吸を乱しているのである。合気道においては、長い呼吸が連続してできるようになることが合気道上達の必須条件なのである。

人は生きている限り呼吸を続けている。このことは腹式呼吸と肺呼吸の連続呼吸は、稽古の場だけではなく、日常生活においても訓練できることを意味する。「長い呼吸」を日常生活の中で身につけることは、少し意識しさえすれば誰にでもできることである。

■呼吸力■

合気道は、攻撃してくる相手と合気することで一体化し、「入身・転換」による体捌きで攻撃者の体を崩し、様々な技によって攻撃者を制する体術であるが、そのときに使う力が「呼吸力」と言われる、身体の重心(臍下丹田)から発せられる力である。呼吸力は長期にわたる稽古によって培われる合気道特有の力であり、腕力や筋力とは異なる力である。『合気道技法』ではこの呼吸力を「力の出し方」として以下のように解説している。

合気道の力の出し方は、臍下丹田、すなわち自己の重心のあり方が非常に大切である。この安定した重心から充実した気持に培われた力が、力強いエネルギー源となって、何のわだかまりもなく、五体の各部を通り、外に発揮作用するものでなければならない。それ故、合気道には力を出すという言葉はあっても、力を入れるという言葉は無い筈である。力は淀んだ水が腐るように肩、肘、首等にこもらせて無力なものとしてしまうことなく、絶えず水源から発する河川のように、身体各部のエネルギーを吸収しながら大きな流れとなって、手先、足先、更に眼光からも、合気道の捌きと一致した螺旋状の円運動を起こしつつ発散し、その対象物に喰い入って行かなければならない。(『合気道技法』49頁)

力は最も安定した自己の体の重心、すなわち臍下丹田にある力の集約点より五体各部を通って、手足の指先より何のよどみもなく出すことを考えるべきである。これにより、全身は安定し、硬直にならずにすむのである。(『合気道技法』50頁)

合気道は「力を使わない」とよく言われるが、正しくは「腕力・筋力とは異なる呼吸力という力を使う」のであり、「力を使わない」というわけではない。不断の稽古によって培われた呼吸力(=力)は柔らかな動きから繰り出される、重さと衝撃力を伴う力なのである。呼吸力は「合気」と同様に眼に見えるものではなく、呼吸力を計る基準はどこにもない。稽古者個々に個人差が大きいのも事実である。したがって、すべての稽古者にとって、より強力な呼吸力を獲得するための継続的な鍛錬は欠かせないのである。

また合気道において腕力は善とされないが、強い腕力の持ち主は強力な呼吸力を獲得できる可能性を持っている。稽古者は不断の稽古を積み重ねることにより、その過程で、腕力を「呼吸力という合気道の力に変容させる」ことが求められ、それができるようになれば強い呼吸力を発揮できる。そうならない稽古者がいるとすれば、その稽古者は、腕力・筋力からの脱却ができておらず、重心から力を出すことができない段階に留まっていると知るべきである。

■座技呼吸法■

この呼吸力の養成・鍛錬に特化した稽古法が「座技呼吸法」である。二人一組が正座で相対し、一方が相手の手首を抑え、抑えられた側が手首を柔らかくして、手刀を擦り上げ気味にしながら、呼吸力によって相手を左(右)斜め後方に倒す稽古法である。とは言え、座技呼吸法は必ずしも相手を倒すことが目的ではない。正座をしながら自分の重心を臍下丹田そして畳に継続的に落とし、押されても引かれても、重心を安定させて動じることなく、自己の重心から「呼吸力」を発して相手の重心を崩すための稽古が座技呼吸法の主目的である。上記引用のように「力は最も安定した自己の体の重心、すなわち臍下丹田にある力の集約点より五体各部を通って、手足の指先より何のよどみもなく」呼吸力を出すための稽古法なのである。

座技呼吸法は、どの道場においても稽古終了時に行われる稽古法である。なぜ稽古終了時に行われるのかといえば、稽古で体力を消耗し、腕力にも疲労を感じる稽古終了時が「腕力とは異なる呼吸力」を養生する稽古に向いているからである。

稽古者はムキになって「最後の力を振り絞る」ことなく、腕力とは異なる力の出し方、使い方を意識しながら呼吸力を追究鍛錬することが求められる。

●コラム:呼吸と日常生活

深く長い呼吸は「息が上がらない」状況が常態となって日常生活に心の安定をもたらす。仕事でも生活でも息が上がっては何事にもうまく対処できない。驚かず・騒がず・怯えずに物事と対処する基本は呼吸にある。ゆったりした長い呼吸を身につければ心にも体にも余裕をもたらすことができる。

■呼吸力と手刀■

呼吸力は相手に対してどのようにして影響を及ぼすのだろうか。前出引用を読み替えれば、「臍下丹田から発する呼吸力は、合気道の捌きと一致した螺旋状の円運動を起こしつつ、五体各部を通って、手足の指先より発散し、その対象物に喰い入って行かなければならない」となるだろう。呼吸力の発せられる方向は一方向だけではなく、同時に上下双方向(手と脚)に発せられ、上下双方向に同時に発せられた呼吸力は重心移動によって前後左右に影響力を与えることになる。

臍下丹田から足下に発せられる呼吸力は、重心の安定としっかりとした体移動・体捌きを支える。そして臍下丹田から上へ発せられた呼吸力は「手」によって相手に影響を及ぼすのである。合気道の手とは「徒手=手刀」である。この手刀を『合気道技法』は以下のように表現している。

徒手における合気道の手は、剣そのものであり、(中略)合気道ほど手刀を使用している武道は他に例がない。(『合気道技法』45頁)

剣と徒手との関係は、剣の理法と合気道の体捌きが表裏一体の関係であることによるものである。正面打ちを受ける(あるいは加撃する)場合、横面打ちを受ける(あるいは加撃する)場合はもちろんのこと、一教から四教までの徒手の捌き、入身投げや呼吸投げなどの徒手の捌きに到るまで、徒手の使い方は合気道の体捌きを支える重要な要素となっており、合気をし、呼吸力を相手に及ぼす身体の部位が「手刀」(手首と手と腕=剣)なのである。

したがって前出引用を「力は最も安定した自己の体の重心、すなわち臍下丹田にある力の集約点より五体各部を通って、手刀から何のよどみもなく出す」と読み替えても間違いではない。腕の切り上げ、切り落としは、力を籠めて腕を激しく上げ下げすることではなく、呼吸力によって手刀(=剣)を切り上げ、切り落とし、相手に影響力を与える体捌きの一つなのである。

また合気道における徒手の使い方は、剣が左右両手によって捌かれるように、両手で捌くものであることも忘れてはならない。体捌きや技の執行時に片方の手が空いてしまい、手持ち無沙汰状態でいるようでは呼吸力を発揮できず、相手に影響を及ぼすことができないばかりか、重心が不安定にもなる。手刀の使い方は、不断の稽古を重ねて体得してゆくのであるが、「重心、呼吸力」の養成・鍛錬と同様に、後述の木刀の素振りが有効である。臍下丹田を意識・安定させて、柔らかく、早く、重く、確実に斬り下ろす木刀の素振りは、手刀の養成そのものでもある。

■当身(あてみ)■

ここで、手刀と密接な関係にある当身についても見ておこう。当身は、拳・肘・足先などで相手の急所に打撃を加える古武道一般に用いられる攻撃の形態であり、相手の攻撃の勢いを止める、相手の体を崩すなど、体術として実に有効なものであるが、合気道が護身術起源であり打撃系の体術ではないためか、あるいは当身そのものの危険性によるものなのか、稽古の機会が少ない印象を受ける。当身を教えていない道場があったとしても不思議ではないかもしれない。合気道の教本である『合気道技法』にも当身の項目は立てられていないし、「当身」の呼称が付いた技があるのかどうかも思い出せない。しかしながら「合気道は当身七割」ともいわれるほど当身が重視されているのも事実である。

この当身の有効性と稽古があまり行われないという現実の乖離はどこから生じるものであろうか。その回答は『合気道技法』「手刀」に記されている。

合気道の技法では(中略)、基本技はすべてこの手刀を使用し、(中略)種々攻防の秘術にしている。(中略)この手刀の動きをよく理解しておけば、この動きが変化して、当身、捻り、押し、引き等にも充分利用できる。(『合気道技法』45頁)

当身といえば、拳による打撃を想像するが、合気道の当身は手刀の変形であり、剣・手刀・当身は合気道の同一・一連の基本動作として位置付けられているのである。合気道の当身は剣・手刀の変形であるために、肘や足による当身ではなく、古武道一般の当身とは少々性質が異なるものの、手を開いた状態での手刀は不断の稽古の中で頻繁に稽古しているのである。そこに拳や掌底に応用可能な手刀の意識的な稽古を行えば、「当身七割」は決して大げさな表現ではないことが理解できる。手刀の使用は合気道の体捌きの随所で行われている。不断の稽古において当身を使用することは少ないように思えるが、手刀を使いつつも、当身を意識した稽古を意識したいものである。手刀を意識した稽古は呼吸力の稽古、特に呼吸力の出し方と深い繋がりがあることも覚えておくと有効である。

合気道を学び上達するために

■稽古に臨む姿勢と自覚 ■

「合気道の体捌きと術理」では、技の構成要素としての間合いや見切り、入身・転換などの合気道の基本的な体捌きと、術理としての合気や呼吸力を見てきた。これらは合気道に必須の要素ではあるが、いずれも身体動作や相手に対する力の及ぼし方などの、フィジカルな側面であるといえる。合気道はこのフィジカルな側面だけで成り立つものではなく、ここにメンタルな側面が加わることで、より理想的な完成形に近づく。

その理想的な完成形に至るプロセスを不断の稽古において「上達」と表現する。では上達に至るメンタルな側面の要素は何かといえば、稽古者個々人の「稽古に臨む姿勢と自覚」である。それは同時に「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」の獲得へと至るプロセスでもある。

■型稽古について■

合気道の稽古は師範の示す技を見た上で、稽古者が二人一組で「受け」手と「取り」手に分かれて稽古をする、いわゆる見取りによる型稽古である。「受け」とは受身をする側、「取り」とは技をかける側のことであるが、二人一組で交互に「受けと取り」を交替しながらさまざまな技を反復練習する。

道場によって個々の技の稽古にかける時間に違いがあるにしても、大体は15分から20分程度であろうか。そしてこの型稽古こそが合気道上達のために決定的に重要な稽古法なのである。なぜなら型稽古は、個々の技の稽古を通して、合気、呼吸力、入身・転換、手首の返し、手刀の切り上げ・切り落とし、足捌き、重心移動などを、「受け」と「取り」を交代しながら何度でも確認・反復練習ができる稽古法だからである。型稽古とは基本動作を繰り返し、合気道の体捌きや術理を時間と回数をかけて身体に馴染ませる行為なのである。

したがって、すべての稽古者にとって、多くの時間を費やす型稽古にどれだけ真剣に向き合い、意味を見出せるか、という稽古者の意識そのものが合気道の理解、上達には欠かせない要素となる。稽古者は常に上達を意識し、型稽古の回数を重ねながら、基本を意識した体捌きと技を繰り返し、その質を問い直しつつさらに稽古を重ねることが望ましい。

MLB年間最多安打の記録を樹立したイチロー選手は、インタビューで「小さなことの積み重ね」と答えていた。大谷翔平選手も、オフシーズンはトレーニングを重ねているという。まさに合気道においても不断の型稽古という小さな基本の積み重ねが上達への道である。そして型稽古では、自分自身に謙虚に向き合う姿勢が何よりも大切である。何故なら謙虚な意識は自ずと体捌きや技の正確さに向かうからである。この姿勢は開祖植芝盛平の言葉「心ある人々は、よって合気の声を聞いて頂きたい。人をなおすことではない。自分の心を直すことである」に通じるものでもあろう。

ただし型稽古には、ともすると与し易い相手を選び、敵わぬ相手を避ける傾向に陥りやすいという欠点もある。これは無意識のうちに起きることであるが、自らの上達を自ら妨げる行為と言える。自分より同等以上の実力を持つ相手との稽古が上達の基となることは誰にでも判っていることであり、稽古者個々人の稽古に臨む姿勢と自覚が求められる。

■様々な稽古法■

合気道の稽古は二人一組の型稽古が主であるが、その他に「自由技」、「掛り稽古」、「多人数掛け」などの稽古法がある。

「自由技」とは、一般的には「正面打ち自由技」や「片手取り自由技」など、大まかな技の「入り方」だけが指示され、執行する技は稽古者相互に申告し、二人が一組となり「受け」手と「取り」手を交代しながら稽古を行う型稽古の拡大版とも言うべき稽古法である。普段の見取稽古とは異なり、相互に自分で確かめたい体捌きや技などを自主的に稽古ができて、高段者や上位の有段者に疑問点を問いながら稽古をつけてもらえる利点もある。

「掛り稽古」とは、一人の「取り」手に対して複数の「受け」手が順番に掛かる稽古法である。用いる技は事前に決められているが、次々と「受け」手が変わるために状況も次々と変化する。取り手の集中力と変化への対応力が求められる型稽古の応用編とも言うべき稽古法であろうか。

「多人数掛け」とは、一人の「取り」手を複数の「受け」手が取り囲み、前後左右から次々と攻撃する稽古法である。「取り」手の技も、攻撃者の順番も指定されていないのが普通であり、「取り」手の見切りと状況判断、体捌きや技の修練度が試される。型稽古の上級編と言えるもので、昇段試験では必ず課されるものである。

試合のない合気道では、「自由技」「掛り稽古」「多人数掛け」を通して日頃の稽古の成果を試し、自己の修練度や上達具合を測ることができる。同時にこれらの稽古を通して稽古者の課題も浮き彫りになるが、技や体捌きの出来不出来はもちろん、気がついた課題を不断の型稽古にフィードバックできる効果があることを覚えておくべきである。

■受身■

型稽古の重要な要素の一つは受身にある。「受身を正しく取る。正しい受身を取る」ことが「受け」手と「取り」手の双方にとって、体捌きや技の修得、合気道上達に欠かせない要因なのである。

すべての稽古者は、高段者や経験豊かな有段者に「受身を正しく」を取ってもらうことで、体捌きや技の有効性などを理解することができるのである。あまり語られないが、稽古者が「正しい受身」を覚える前提には、高段者や有段者に「受身を正しく取ってもらった」という学習体験が大きく左右している。

身体能力や柔軟性に個人差はあるにしても、身体動作としての受身は、稽古の回数を重ねれば誰にでもできるようになるが、稽古者は以下に述べる「受身の持つ厄介な問題」を常に意識して稽古に臨まなければならない。

合気道に限らず、武道を学ぶ人はほぼ間違いなく、「負けたがらない人種」である。初心者から有段者に至るまで区分けなく稽古を行う型稽古では、段位にかかわりなく、この負けたがらない性向が「受身を妨げる。受身を取ってあげない。嫌々ながら受身を取る」といった行為としてしばしば現れるのを眼にする。その多くは無意識の行為なのであろうが、受身を妨げられた側もまた、段位にかかわりなく「負けたがらない人種」であるから厄介である。双方ムキになって「受身の邪魔し合い」が始まる。この「負けたがらない」意識は無意識とはいえ、合気道の上達を妨げる悪因ともなっている。特に上位有段者は下位有段者や初心者に対して「謙虚で素直な気持ちで受身を取る」「正しい受身を取ってあげる」「その行為によって正しい技や体捌きを教授する」という意識を強く持たねばならない。

初心者や子供との稽古を通して「受身を正しく取る」稽古は、自分の受身を確認するためにも有効なものである。相手の攻撃に対して「微動だにもしない」というのは、重心の安定と呼吸力を示すことはできても、稽古としては必ずしも正しいと言えないのである。

高段者が相手の正しい体捌きを誘導するために、意図的に受身を妨害してみせる場合もあるが、それはあくまで指導の範囲に留めなければならない。それを超えれば「嫌がらせかイジメ、自己満足」にすぎなくなる。

稽古者たるものは、高段者との稽古でも初心者との稽古でも、「受身を正しく素直に取る姿勢」を大事にしたいものである。

■稽古は速さ・強さより正確さ■

合気道は「接触技」「瞬間技」とも言われ、素早い体捌きと技が理想とされる。稽古者は技を修練し段位が上がるにつれて、ともすると体捌きや技の速さ・強さを求めがちとなるものである。それは正しい選択ではあるものの、通常の稽古者が「接触技」「瞬間技」をこなせる次元に達するのは難しいのも事実であり、稽古者が求めるべきは速さ・強さではなく、正確さを身につけることである。確実にゆっくりと、合気道に必要な体捌きの諸要素を、最も多くの時間と回数を重ねる型稽古を通して覚えこむことが、何より合気道上達の早道である。

速さと強さに拘る型稽古を否定はしないが、合気道の「速さと強さ」は、物理的・身体的な速さ強さもあるだろうが、正確で無駄のない動きからも生まれるものである。型稽古の積み重ねを通して入身・転換の正確な体捌きを体得し、間合と見切の感覚を磨き、合気と呼吸力を養成することで速さと強さは自ずと身についてくるものである。

また体捌きの速さを左右するものに「見切」を挙げることができる。繰り返しになるが「見切」は「合気」と連動することで滑らかで素早い体捌きを導き出すのだが、合気のタイミングを計ろうとして、思わず相手の動き(攻撃)を「じっと見て」から入身・転換に移行しようとする稽古者は結構多いのである。しかし、じっと見ることによって、コンマ何秒かのごく僅かな時間であるが、身体の動きも静止してしまう。この僅かの遅れが合気不充分の状態を呼び起こして、体捌きが窮屈になることに思い至らなければならない。相手の動きを視野に入れながら事前に体捌きに入るのと、相手の動きを確認した後で体捌きに入るのとでは、全く違う結果となるのである。

前述引用の開祖植芝盛平の言葉「合気道は相手が向わない前に、こちらでその心を自己の自由にする、自己の中に吸収してしまう。つまり精神の引力の働きが進むのです」を思い起こすと分かりやすい。

■型稽古の弊害■

合気道を理解する上で「阻害要素としての型稽古」も意識しておく必要がある。合気道の場合、大所帯の道場もありはするが、多くの道場の稽古者は10人から20人程度であろうか。このことは稽古相手がいつも同じで、道場内の少人数序列化と稽古の常態化を招く危険性を孕んでいる。そしてこの常態化の延長線上に、変化と異質を排除する道場体質が醸成される可能性は否定できないのである。

転勤や転居で新たな道場の門を叩いたものの、一回の稽古だけで次回からの稽古を拒否されたという話を時々耳にするのはこのような背景によるのだろう。「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」が不断の稽古の価値観として中心に据えられていれば、このようなことにはならないと思うのだが、同じ合気道を学ぶ者として残念な限りである。

稽古者たる者は、新たな訪問者が来たなら、新たな出会いにわくわくする心根を持ちたいものである。多様性と刺激が進歩をもたらすことを忘れようにしたいものである。

■木刀の素振りと重心(重心移動)■

「入身・転換」の体捌きにしても、「合気」や「呼吸力」の術理にしても、また様々な技の実行にしても、すべてにおいて重心の安定(臍下丹田の安定)がなければならない。前出「呼吸力」に重複するが、重心の安定があらゆる体捌きを支え、合気と呼吸力の源泉ともなるのである。技の途中で体が前屈みになったり、技の終了後に体がふらついたりするのは、重心が定まらず、重心移動が不完全であることを意味する。

重心の安定と安定移動は基本的に型稽古の積み重ねの中で養われるものであるが、最も効果的な稽古法は、木刀の素振りである。用いる木刀は普通の木刀ではなく、素振り用の重い木刀が良い。

素振り用の木刀を上段に構え、相手を頭部から一刀両断するように、臍下丹田を意識・安定させながら、柔らかく、早く、重く、やや膝を曲げて腰を沈め気味に、確実に斬り下ろす。これを継続して行う。軽い木刀による素振りは腕力や上半身の力で振ることができてしまうために、単なる筋肉強化運動で終わってしまう可能性もある。これに対して重い木刀による素振りでは、切り落とすにしても、切り落とした木刀を静止させるにしても、また素振りの回数を重ねれば重ねる程、腕力や上半身の力だけでは継続できないことに直ぐに気がつき、「重心の安定」と腕力以外の力である「呼吸力」を求めざるを得なくなる効果がある。

木刀の素振りは重心の安定だけではなく、入身、(手刀の)切り上げ・切り落とし、(素振りを前後に行えば)転換、転体の稽古、足捌き、そして残心の確認にも効果的である。若い稽古者は一回につき百本程度の素振りを二、三回、長期間にわたって繰り返すとより効果がある。

また重心の安定した素振りができるようになると、手刀にも大きな変化・影響が出てくるようになる。これは呼吸力が身に付いたことを意味するもので、圧力を伴った重くて早い手刀が使えるようになるのである。これに伴って当身も大きく変質してくる。それが実感できるようになるまで素振りを継続すると良い。

但し一、二年程度ではなかなか変質を実感することはできない。「石の上にも三年」程度の心積りで臨むとちょうど良い。

■合気体操■

重心の安定、重心移動を身につける稽古法に合気体操がある。船頭が艪を漕ぐ姿に似ているところから「船漕ぎ体操」(正しい呼称は「天の鳥船」)とも言われる合気道独特の体操である。相半身の状態で膝を「くの字」にして両腕を前に突き出すように、重心を前方に水平移動させ、その後、後ろ足の膝をくの字にして両腕を両腰に戻すように重心を後方に水平移動させる。

この時重心から呼吸力がグッと出るように意識しながら重心の前後移動を繰り返す。この動きは一教から四教の体捌きに連動している。また同じ体勢で両腕を斜め前方上に振り上げ、その後両腕を両腰に振り戻せば切り上げ・切り落としに、体を自然体にして左右に重心移動をしながら、移動する方向の膝を左右移動のくの字として、両腕を左右肩越しに移動すれば呼吸投げの体捌きとなる。

合気体操は、稽古初めに行われることが多いが、重心の確認と重心移動にとって有効な稽古法で、様々な体捌きのエッセンスを凝縮したものでもある。稽古に入る前に体をほぐす単なる準備運動という意味合いを超えた、合気道上達に欠かせぬ体操であることを忘れてはならない。この合気体操は自学自習のための一人稽古にも向いている。

■足運び① 摺足(すりあし)■

合気道の足運び(歩行法)には「摺足」と「膝行(しっこう)」の二つがある。「立技=摺足」、「坐技=膝行」という違いであるが、以下にそれぞれを見てゆこう。

「立技」の足運び(歩行法)である摺足は、文字通り畳を摺るように、畳とほぼ平行に体を移動させる歩行法である。

われわれは子供の頃から、足の上下動により膝をあげて足を前に運ぶ歩行法(行進)を訓練され覚え込んでいるが、摺足はこれとは異なる重心の移動による歩行法、足捌きである。摺足は膝をあまり曲げず、足を蹴らずに歩行・移動させる古武道・伝統芸能由来の歩行法であり、柔術や剣術、能や日本舞踊なども摺足を基本とし、足指の第一関節で畳(地面)を噛むようにして重心の安定を図るのが特徴である。これを身につけるため、武士の時代の剣術道場では、床に大豆を撒いて摺足の稽古をしたといわれるほど、武道に必須の歩行法である。

合気道においては「入身一足・円転の理」はもちろん、全ての技の足捌きは摺足で行われる。足に力を入れると蹴る動きとなり、踵が上がって重心が上下動する。上下動による足捌きは重心(重心移動)が不安定になる。飛び跳ねるような入身や体捌きは、その瞬間に重心が浮いたりぶれたりして不安定になるばかりである。

摺足は合気道の足捌きの基本ともいうべきものであり、合気道上達には欠かせない要素であるが、不断の稽古においてはあまり語られない印象を受ける。稽古者は、自分の摺足が正しくできているか、それによって重心の安定した体捌きができているかを常に意識することが求められる。

稽古者自身が稽古においてまず確認できることは、摺足(=送り足)の時にバタバタ、パタパタという足音がしないか、体移動に不安定な上下動が起きて、体の軸が前後あるいは左右に傾いていないか、ということである。摺足(=送り足)が正確であると、畳を擦るザーザーという音が伴う場合があるが、バタバタ、パタパタという音は発しない。バタバタ、パタパタという音は畳を足で叩いている音であり、すでに上下動によって重心(移動)や体捌きが崩れ始め、呼吸の乱れにもつながる警告音だと思うとよい。

摺足が正しく行われていないと気がついた時には、送り足の幅や速度を少し変えたり、重心の安定を強く意識するなど、稽古者の意識次第である程度は修正が可能である。これは受け手にも取り手にも共通することである。重心の移動、体捌きに連動した摺足の修得には普段の稽古の他に、前述の木刀の素振りや杖捌き、また合気体操が有効である。

●コラム:黒袴

合気道の有段者は黒袴を着用するが、足運びが上下動することで袴を踏んでしまい、間々自ら転倒する光景を見かける。そのせいか袴の先端から踝が出るようにして着用している場合を見かけるが、摺足を習得するためにはあまり感心しない。袴は合気道上達のためのツールでもある。

但し、師範や指導員が、踵が見えるように袴の両脇を帯に手挟むようにして体捌きや技を教える場合があるが、これは足捌きがはっきりと見えるようにするためのものである。

■足運び② 膝行(しっこう)■

合気道のもう一つの足運び(歩行法)である膝行は、「ひざまついて膝で進退すること」「膝頭で進んで礼拝し、膝頭で退くこと」を意味し、坐技で用いられる歩行法である。『合気道技法』は坐技について、以下のように述べている。

合気道技法の基本は、一にかかってこの動きにあると言っても過言ではないのである。これによって下半身を鍛えることは、足技、寝技とは、また違った強靭さを体の動きの中に練りこんで行くことになるのである。(中略)賢明なる読者諸君は、坐技、半身半立技を加えて、その鍛錬法を考えて頂きたい。立技も坐技もその技術的動きに至っては毫も変わったところがないからである。(『合気道技法』258頁)

合気道の前身は会津藩に伝えられた殿中護身術の「御式内」であることは前述したが、対座している状態からの護身術が合気道の基本なのである。上記引用の「合気道技法の基本は、一にかかってこの動きにある」とはそのことを表現しているものと思われる。

立技でも坐技でも入身・転換などの身体動作や合気、呼吸力の使い方は同じであるものの、生活様式が様変わりした現代人にとって、膝行は時代劇映画やドラマで眼にするくらいで馴染みの薄い身体動作であり、膝や足首を痛めている稽古者にとっては厄介な動作である。

膝行による坐技を覚えるまでには、どうしても上半身や腕に力が入り、ギクシャクした動きとなるものであるが、幸い日本人は座る動作を記憶の遺伝子に持っているようで、慣れてしまえば何ということはない。

合気道の基本でもある坐技と膝行は、苦手意識を持つことなく、稽古の回数を重ねて慣れることが肝要である。

■残心■

型稽古や木刀の素振りなどを通し、重心の安定(=安定移動)を覚えながらも、忘れがちになるのが「残心(ざんしん)」である。残心とは「技を決めた後に、心身ともにゆとりがある状態」のこととされ、「残身」「残芯」とも言われる武道に必須の要件である。残心は剣術・剣道で特に強調されるが合気道においても同様である。

固め技においても投げ技においても、技の終了時に心身ともに余裕のある安定した状態でなければならない。技の完了時に体がふらついていたり、屈んでいたり、傾いていたり、両足が開きすぎて次の動きに速やかに移行できない状態は残心が不完全である。

合気道は二人一組の型稽古が中心ではあるが、多人数掛に見るように、常に複数の攻撃者を想定しており「技の終わりが次の体捌きの始まり」でもある。残心ができていることが体捌きや重心の移動が滞りなく行われ、次の体捌きに連続して移行できることを意味しているのである。

残心が不完全な状況の原因は、重心(移動)が不安定となり体捌きが崩れているからである。多くの場合は、腕力に依拠して上半身に力を籠めた体捌きを行なっている場合である。前述の呼吸力の箇所で引用した「力は最も安定した自己の体の重心、すなわち臍下丹田にある力の集約点より五体各部を通って、手足の指先より何のよどみもなく出すことを考えるべきである。これにより、全身は安定し、硬直にならずにすむのである」とは、呼吸力のみならず残心の要諦をも表している。

不断の型稽古においても、技の執行に気をとられて、残心を忘れていると思しき稽古者は結構多い。合気道は「合気に始まり、残心に終わる」という意識を持ち、技の終了時に自分の残心を確認する余裕を持つことが、合気道上達への道である。

■木刀と杖■

合気道の稽古は徒手で行われる稽古が中心であるが、木刀や杖による稽古も多く行われる。これは合気道が武士の護身術を起源とし、刀や杖の捌きと合気道の体捌きが表裏一体の関係であることに由来する。木刀や杖を用いた体捌きと徒手による合気道の体捌きは相互に補完し合う関係なのである。

このことを『合気道技法』では以下のように述べている。

植芝翁が修業した剣の道、槍の道が現在の合気道に渾然一体として溶け込んでいることは言を俟たない。故に或る一面では、剣の理法を体に表したものとまで言われている。

合気道は、日本の伝統と歴史から生まれた昔の武道を、更に近代的な科学的根拠の上に合理的に打ちたて、自然の流れからほとばしるものである。故に合気道の体術ができれば剣術もできねばならず、杖術も薙刀もそれに応じて、自在に使いこなすことができねばならない。(『合気道技法』241頁)

木刀の捌きや杖の捌きが円滑にできるようになるということは、重心(移動)や呼吸力、体捌きの要領を会得したことを意味するとも言えるのである。

ところで、木刀は真剣の代わりに用いられるものであるのは理解できるが、杖は何の代わりに用いられるのだろうか。戦さ場で槍の穂先が切り取られたり壊れたりして、槍として使えなくなった時に、残った槍の本体を武器代わりにしたものが合気杖の起源といわれている。所謂日本杖道とは異なるものであるらしい。

杖の稽古では、「十三」の型や「三十一」の型など、幾つかの型に纏められた杖捌きを行うのだが、杖と木刀では少々様相が異なる。木刀は握り位置を変えないが、杖はしばしば握り位置を変えるために、繰り出される杖の先端が伸長変化して「見切」に苦労する場合がある。突いてくる杖の先端が遠い間合いにあるかと思いきや、するすると伸びてくるので、少しばかり厄介でもある。

木刀や杖を用いた稽古では徒手の場合とは印象が異なるが、正面打ち、横面打ち、突きなどは徒手による場合と全く変わらない。むしろ当たれば怪我をしかねない木刀や杖を用いた稽古では、間合や見切、合気や入身を真剣にこなさなければならなくなり、合気道の体捌きの稽古には有効である。

間合の理想は「お互いの拳と拳の間隔が拳一個程度」であるが、木刀や杖で相対している場合の印象は随分と違ってくる。間合いが遠く感じて合気のタイミングが図り難い印象を持ち、いつもより速く深い足捌きをしなければならないのではないかという不安を抱きがちとなるものであるが、その実は何も変わってはいない。相手の木刀や杖の切っ先が徒手の場合の拳に該当し、相手が徒手で構えた場合より遠くにいるからといって、間合が広がっているわけではない。受けと攻撃の一足でその間合は一気に詰まり、徒手の場合と変わらなくなる。大事なのは木刀(短刀)や杖と相対した場合の「間合と見切の感覚」を磨くことである。慣れることである。

■一人稽古■

合気道の稽古は道場以外の場所において一人で行うこともできる。ボクシングのシャドーボクシングや野球のシャドーピッチングなどと同じ、合気道の一人稽古である。

呼吸の確認、合気体操、入身・転換の体捌き、木刀の素振りなどの一人稽古は、自宅の畳一畳分程度のスペースがあれば充分にできる。一人稽古は相手がいない分、自分のペースで、あれこれと考えながら、いつでも、短時間で行える利点もあり、体捌きのクセに気がつく場合もあって案外効果的である。特に仕事をしながら休日だけ稽古に通う、稽古量に少し物足りなさを感じている稽古者にはオススメである。

2019年から3年に及ぶコロナ禍では、様々な運動が制限されて運動不足となった方も多いだろう。このような折にも一人稽古は有効である。道場が無ければ、稽古相手がいなければ何もできない、ということはないのである。

ただし木刀の素振りは家族がいない時に、家具や置物を破壊しないように注意しなければならない。子供や家族連れのいる公園等の公共の場での稽古もお勧めできない。特に木刀の素振りや杖を振り回すことは、昨今の世相下ではトラブルを引き起こすこと必定であり、厳に慎まなければならない。ならば近くの林や森の中、あるいは暗くなってから、も駄目である。

少々変則的な一人稽古としては、路上で前後左右の人がどのような動きをするかを予測しながら道を歩く方法、電車のつり革に指一本、二本でぶら下がり、手首と指を柔らかくして揺れを吸収できるかを試す方法、電車の中で何にも捕まらずに重心を保ちながら揺れに耐える方法、などなど、道場以外での一人稽古は幾つも見つけ出すことが可能である。ただし、電車の中では人目を気にし、周りの人に迷惑をかけてはならない。

■心の持ち様■

合気道を始める動機は稽古者によって様々だろう。体術としての合気道を学んで強くなりたい、合気道を通して心身の鍛錬をしたい、合気道を通して健康の維持・増進をはかりたいなど、入門の動機は様々であろう。

長く稽古を続ける人もいれば、すぐにやめる人もいる。長く稽古を続けた人でも潮時を感じて稽古をやめる場合もある。すぐにやめた人でも数年後に道場に現れてまた稽古を再開したりもする。そのどこにも良し悪しの判断は介在しない。しかし合気道に惹かれて五年、十年と時間を重ねた稽古者には「自分が熱中している合気道とは何なのか? 合気道の理想とする世界とは何なのか?」と自問自答してみることをお勧めする。何となく、ただ漠然と月謝を払い続けて五年も十年も稽古に通う変人はいないだろう。合気道に「何か」を感じ、「何か」を見出し、「何か」を求めているはずである。その「何か」を考えてみることは合気道上達にとって意味のあることではないだろうか。

合気道界で高名なある指導者の方は、入門の動機を「喧嘩に強くなりたかったから」とインタビューで答えておられた。「合気道は武士の護身術を起源とする」といえば少しは格好良く聞こえるが、その実は侍の殺し合いのなかから生まれた体術である。インタビューにそのように答えることの良し悪しは別として、「喧嘩に強くなりたい」という動機もあながち否定はできない。斯界の第一人者にまで登り詰められた方の言であれば、それも立派な動機なのかもしれない。

合気道に入門する動機が如何なるものであれ、不断の稽古の中で、「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」の獲得を心に想い定めることも合気道の稽古の内であると言える。合気道の稽古者は、意識をするか否かに関わらず、必然的に合気道の理想とする「争わぬ心と不動の境地」「和合の精神」の獲得に向けて稽古をしているのである。

■合気道事始めと岩切師範のこと■

合気道との出会いは昭和63(1988)年、坂戸合気会にて岩切光作師範に師事したことに始まる。40歳目前の、能力的にも体力的にも限界を覚え始めた時のことであった。

初めてお会いした岩切師範は、昭和13(1938)年生まれで10歳年上の50歳であった。言葉が少なく無愛想で、それでいて眼差しに人懐かしさを湛えた不思議な印象の人柄であった。後日お伺いしたところ、「面倒なことが嫌い」ということであった。道場への入り方から礼の仕方まで、言い出せばキリがないが「いちいち面倒くさい」から何も言わないのだそうである。

岩切光作師範の合気道は凄まじい。無駄な動きが全く無い。瞬間的に体を崩され、関節を固められて身動きが取れなくなる、瞬間的に(場合によってはふわりと)投げ飛ばされる、緩やかで強烈な手刀が飛んでくる。恐怖感を感じる圧倒的強さである。「本気でやり合ったら只事では済まない」と思ったことは一再ではない。しかも心を読み込んでくる。仕事の悩みや人間関係のもつれなどを引き摺って稽古に行くと、「どうした?」とさりげなく聞いてくるのである。

無口な岩切師範の断片的な話を繋いでその合気道歴を辿ると、合気道との出会いは、15歳の折に本部道場を訪ね、そこにいた老人(植芝盛平開祖)に合気道をしたいと申し込んだところ「おーい、この坊やが合気道をしたいそうだから、面倒見てあげな」と言われて道場に招じ入れられたことにはじまるそうである(『合気道探究41号』では18歳と記載されている)。

岩切師範の弁によれば、受身が取れたので、「その場でバンバン投げ飛ばされた」そうである。入門以来短期間で三回ほど失神して、兄弟子たちに呆れられたという。入門の日からは、家と道場、道場と学校を往復する「半内弟子状態」の生活であったという。武蔵大学に入ると、当時数人しかいなかった学生有段者として都内の各大学合気道部をまわり、関東学生合気道連盟創設のために奔走した。どの大学を訪ねても同じ大学生同士、交渉は喧嘩状態となり、在学中に組織を纏められなかったのが口惜しそうであった。

大学卒業後は植芝吉祥丸道主と同じ証券会社に勤務をしながら本部道場指導員として、教えていたが、生来の「面倒なことは嫌い」が嵩じて本部道場指導部を退任した。開祖が他界した1970年代前半のころと推測されるが、しかしそこは合気道が染みついた人生、辞め切れるものではない。植芝吉祥丸道主に相談の上、昭和51(1976)年に坂戸合気会を開設し、合気道に復帰する。

その岩切光作師範は令和5(2023)年3月28日、鬼籍に入られた。享年85歳であった。2015年に悪性リンパ腫を患い、埼玉医大国際医療センターで入院治療を重ねて完全寛解はしたものの、最後は胃癌を発症した。

葬儀後に、岩切師範の机の上には、以下の走り書きが残っていたそうである。

  災なんに逢う時節には

    災なんにあうがよく候

  死ぬ時節には死ぬがよく

             候

  これは災難をのがるる妙法

           にて候

  うちつけに死なば

  形見とてなに残すらん 春は花

  夏はほととぎす 秋のもみぢ葉

「困難な出来事に遭遇したら、ジタバタせずに面と向き合うんだよ〜。逃げたり、余計なことをしたりしないよ。いいね〜!」とは、岩切師範が時折口にしていた言葉である。死に面して残した走り書きは、まさにその心境、合気道の真髄である「不動の境地」であったのだろうか。

思い出すことは様々あるが、岩切師範に「合気道が上達するためには何が必要ですか」と聞いた事があった。合気道を習い始めた頃であったが、岩切師範はしばし考えた上「そうさな〜、胃腸が丈夫なことかな」と答えられた。その意味が「受け身が取れること」であることに気づくのには随分長い時間がかかったが、合気道上達の要因を、多くの人が言うような合気や呼吸力ではなく、受け身に見ていた岩切師範の視線には、今改めて感服する。

もはや岩切師範のご指導を仰ぐことは叶わないが、頂いた多くの教えを心に刻み、できる範囲で合気道の稽古に精進したいものである。

■あとがき■

本稿は合気道の解説を目的としたものではない。表題の通り、一稽古者の立場から、稽古を通して興味を持ったこと(「合気道略史」)、稽古を通して上手く表現できずにいること(「合気道の術理と体捌き」)、稽古を通して気になったこと(「合気道を学び上達するために」)等々、自分が体験し学んできた合気道の全体と部分、合気道を学ぶ上でのポイントと思える事柄などを、自分なりに文字化したものである。

合気道を始めて26年が経過した平成26(2014)年から、「教えながら覚えなさい」という岩切師範のご下命を受けて初心者指導員を勤めることになった。それまでは黙々と稽古をしていればすんだものが、いざ教え始めてみると、知っているつもりの事に曖昧さが伴い、体捌きにおいても「これで良かったのか」という不安がよぎる。教えながらも確たる自信が伴わない。自分がまだまだ合気道理解の道半ばにいる稽古者の一人にすぎないことを痛感する。本稿を書き始めた動機はそのような背景による。合気道を学び、教えながら、気になりつつも放置状態のままになっていた、様々な曖昧箇所、疑問などを文字化することによって、自分なりに合気道を確認・理解しようとしたものである。

もうひとつの執筆動機は加齢によるものである。後期高齢者に達する年齢で、いつまで道場に通えるか判らない。やがて訪れる引退時の置き土産の意味で本稿を執筆した。しかし本稿は読者を想定したものではない上に、文章表現力が乏しい。多くの人に読んでもらうには無理があるが、合気道稽古者の誰か一人でも、本稿記載の内容が参考になるようであれば望外の喜びである。

本稿は岩切光作師範の長年にわたるご指導の産物である。非力であるにも拘らず教える機会を頂いたことにより、自分なりに合気道を様々考える機会を得ることができた。「感謝」以上の言葉を知らないが、岩切師範には深く感謝している。

参考・引用文献・資料

『邪宗門』(上・下)高橋和巳著、新潮社、1971年。

『激動期の一会津藩家老 西郷頼母』会津武家屋敷文化財資料室編、1977年。

『黄金の天馬』(上・下)津本陽著、文藝春秋、1983年。

『合気神髄-合気道開祖・植芝盛平語録』植芝吉祥丸監修、八幡書店、2002年。

『みろくの世-出口王仁三郎の世界』上田正昭監修、天声社、2005年。

『白河・会津のみち、赤坂散歩』司馬遼太郎著、朝日新聞社、2005年。

『合気道技法』(復刻版)植芝吉祥丸著、出版文芸社、2007年。

『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽著、双葉社、2010年。

『戊辰戦争と東北の格差』太田保世著、東海大学出版会、2011年。

「特集 奥州相馬の文化学」(『iichiko』No.115)、2012年。

『伝説の天才柔道家西郷四郎の生涯』星亮一著、平凡社、2013年。

『合気の武田惣角-武蔵を超えた男』池月映著、歴史春秋社、2015年。

『会津執権の栄誉』佐藤嚴太郎著、文藝春秋社、2017年。

『武道論–これからの心身の構え』内田樹著、河出書房新社、2021年。

「合気道のしおり」公益財団法人合気会。

著 :三浦 義博(みうら よしひろ)

  六段(公益財団法人合気会)

  1948年福島県生まれ。

  東海大学卒。

  坂戸合気会にて岩切光作師範に師事。

  現在:坂戸合気会指導員、埼玉県合気道連盟理事。

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